パリ、セーヌ川の南側にある7区。金色のたまねぎのような廃兵院「アンヴァリッド」のすぐ隣りで、世界から絶えまなく人々が訪れる場所がある。それがロダン美術館。そう、日本でも「考える人」の彫刻で有名なあのロダンのミュージアムだ。
当初ここはルイ14世の義娘が住む館だった。1753年にフランス衛兵隊のビロン総司令官が所有者になり、以来「ビロン館」と呼ばれるようになったこの建物は、その後、聖心修道会が女子教育の施設とするのだが、フランス革命後に宗教と教育を分離する国の政策が決まり、建物を処分しなければいけなくなった。
このとき、処分が決まるまでの期間限定で安く貸し出されたのをきっかけに、歴史は大きく転換することになる。なにしろ集まってきたのが、時代をときめく芸術家たちだったからだ。
パリのど真ん中で大きな庭園のついた屋敷に移ってきたのは、ドイツ出身の詩人リルケやジャン・コクトー、画家のアンリ・マティス、ダンサーのニジンスキーなど。今から考えると芸術界の巨人たちがそろったアーティスト・イン・レジデンスのような雰囲気になった。
そんな芸術家の中で、いちばんここを気に入ったのが、オーギュスト・ロダンだった。すでに国からの彫像制作をいくつも手がけるなど名声を得ていたロダンは、パリの郊外にあったムードンの自宅から毎日通い、日常の大半をここで過ごすようになっていたという。
取り壊しを逃れたこの建物は1911年に国の所有になったが、要人とのつながりもあってロダンだけはここに残ることに。そして1916年、彼のたっての希望で、本人の作品と収集してきた美術品などすべてを国に寄付、この館が個人美術館となることが決まった。彼はその思いがかなって安心したのか1917年に77歳で逝去。その2年後には早くもロダン美術館がオープンした。今からおよそ100年前のことだ。
このビロン館と、彼が自宅兼アトリエとして使っていたムードンの邸宅の2ヶ所が、現在「ロダン美術館」として公開されている。所有される遺品は、約6,800点もの彫刻、約8,000枚のドローイング、約10,000点もの写真、そして古代の彫刻などまで、膨大な数におよぶ。
意外なことに、ロダンは37歳まではほぼ無名の存在だった。パリ国立美術学校の入学に3度も失敗したのは、歴史のいたずらなのか。当時、まだ古典的な彫刻が主流だった美術界と距離をおき、ロダンを斬新な表現へと向かわせるひとつの要素になったと思われる。
そして35歳のときに決行したイタリア旅行で、彼はミケランジェロの作品と衝撃的な出会いをする。ご存じの通り、ミケランジェロはレオナルド・ダ・ヴィンチとならぶイタリアルネサンス期の巨匠。人間の美をありのままに、その肉体美や動きまで映すような彫刻の表現は、「描かれる主題」が重要だった19世紀のロダンに大きな影響を与える。やがて彫刻界を揺るがし、彼が「近代彫刻の父」と呼ばれる理由はここにある。
イタリアからの帰国後に発表した彫刻『青銅時代』は、あまりの生き生きとした表現に「本物の人間で型をとったのではないか?」と疑惑が沸き起こったほどだった。その疑惑が晴れると、結果的に彼の力が証明された形になって評価が高まる。やがて国も作品を依頼するようになり、こうした中から有名な大作『地獄の門』が創られた。
オーギュスト・ロダン『地獄の門』
美術館の前庭におかれたこの『地獄の門』、よく見ると上のほうに『考える人』と同じポーズをとった人物がいる。実は『考える人』は、ここで地獄を見つめるこの登場人物を抜き出して彫像にしたものだったのだ。モデルは、ロダン本人とも、あるいはこの作品のモチーフになった『神曲』を書いたダンテとも言われているが、確証はなにもない。
オーギュスト・ロダン『考える人』
手が触れられるほどに作品を近くに見ながら、ロダンの人物像をリアルに、身近に感じられる、それが大きな美術館とは違うこの場所の贅沢さだろう。石なのに温もりまで感じられそうな肌。主人公のドキドキさえ伝わってくるような官能的な彫刻。今にも動き出しそうな躍動感・・・。彼にまつわる数々の逸話を思い浮かべ、その時代の生活も感じながら、ロダンが愛した館の空気をゆっくり確かめてみたい。
Musée Rodin ロダン美術館
77 rue de Varenne, 75007 Paris, France
10:00〜17:45(入場は17:15まで)(月曜休館)
地下鉄Varenne駅(13号線)またはInvalides(8・13号線)から徒歩